昭和49年09月09日 朝の御理解



 御理解 第46節
 「痛いのが治ったのが有難いのでは無い、いつもまめなのが有難いのぞ。」

 まず私共がおかげの世界を知らなければならぬ、それは信心をさせて頂いて始めて、体験する事であり、解らせて頂く事であります。なぜ痛いなら痛い、痒いなら痒い事を、何かとたがい違いになって行くならば、たがい違いにならない言うなら、素晴らしい対応が、発揮頂けるおかげを頂かなければならない。金に不自由しておるならば、お金に困って居るならばその、困らんで済むだけのおかげを頂かなければならない、住に不自由しておるならば、不自由せんで済むおかげ受けなければならない。
 そこにおかげの世界がある、そのおかげの世界から今度は、願い以上のおかげとでも申しましょうか、願わんでも頂くおかげしかも限りなく、そう言う世界をお徳の世界だと私は思う。一つの順序一つの段階、段階を追う信心が進んで行く、願って頂くおかげはいわばおかげの世界、願わんでも頼まんでもしかも限りなく無尽蔵に頂ける世界が、お徳の世界。私は今日のこの46節のね、痛いのが治ったので有難いのではない、いつもまめなのがありがたいのぞと。
 そこが解らせて頂く信心の世界を、私は信心の味わいだと思う、だからその信心の味わいと言うのはおかげを頂くから信心の味わいとは言えない。自分の思い道理の、所謂痛いのが治ったら本当に嬉しかったと言うだけの事であって、けれども先ずは私共がおかげの世界を知る事だ、先ずは是は信心させて頂く者だけしか体験できない世界でもあるのですから。言わば痛いのが治った、難儀しとるのが難儀せんですむ様になった、そこで又お願いさして頂いて、素晴らしいタイミングの中に。
 今日の様におかげを頂いたと、そこの所のおかげを所謂おかげの世界に先ず住んで始めて有難いと言う心が育って来る。昨日、東京の私の若先生が家内の法事が皆んなで、お寿司をもう古い暖簾をもったお店ですけれども、そのおかげを頂いておる、であのそこの嫁の兄さんお手紙が着ておる、今度東京であー言う三菱重工ですしたか、そのう爆発事故があった、本当に私はあのー事をニュースで聞いたときに、まあー本当に大変な事が平気であの大変なことをやる事もやる。
 また大変な事が所謂惨事が起こったなと、けれどもまあ、自分係わり合いある所には関係が無いものの様に思うとった。所がどうして丁度七件ありましたね、七人ありました関係があってお礼が来たのが、その一件目が東京の、あの若先生の家内の里の事でしたが、何時もふっと家内が出ませんから、三菱重工からお昼の時間になると、必ずお昼の注文がある、所がその日に限って三菱重工からは注文が無かったという。
 そしてお隣の三菱商事の方に注文を受けて、丁度お昼の事ですからね昼食、あのう丁度昼食の時間じゃったんですね。それを持って行って中に入ったとたんの爆発じゃった、もう小僧さんが青うなって帰って来ましたと、毎日の様に何時もの様にあの三菱重工の方へ配達しておったら、もうそれこそ大変な事にならんにしても怪我位しておったけれども、おかげを頂いて、まあ青うなっただけにおかげを頂いたと言うのである。
 ここに参っておられる( ? )さんの甥ごさんは、お母さんが熱心にやっぱ信心、今此処で丸少のバンドをやっている人のすぐの弟さん、ほんなそこの前でお仕事をしておられたんだけれども、今日の爆発の寸前に中へ入ったのと爆発が一緒だった、二、三、日前熊本からお礼に来た兄弟二人なんかは、お昼の時間になったから地下室に降りよる、地下室に降りた瞬間爆発した、これも三菱重工と言った様なね。
 一人の人なんかは、羽田野さんなんかは、吉井のね、弟さんの嫁さんなんかは三菱重工に勤めておる、机を挟んで前の人はやられたけれども、こちらへ居った人だけはおかげで無傷だった、もう本当に電話を受けたり、聞いたりしてです、それこそ身の毛もよだつような事ですけれども。そう言う中にです、もう本当におかげを頂いて良かった、怪我せんで済んだ、命拾いしたまあ、喜んでおりますけれどもです、私は、合楽に御神縁を頂いておる人達の全ての上に。
 そう言う強烈な祈りの中にあるんだ、圏内にあるんだと云う事を、皆さんに知って頂きたい。今日のご理解の中で、何時もそう言う祈りの中にあるんだ、だからこそ平穏無事であったと云う事等はもう、愈々今日のそう言ういま、此の中に生かされて居ったと言う事の実感がです、どれ程有難い物になるかと云う事がです、5有難いと思う人10有難いと思う人、50も百も、千も有難いと思う人そこに信心の、言うならば出来た出来ないと言う所の事が伺われる訳であります。
 皆さんがやっぱり願いの中に、やっぱり今日も平穏無事で、おかげを頂きたいという願いを求めん者はありません、ですからその祈りと云う物がです、やはり強い祈り、今朝のそのご理解の中に確信の祈り、そう言う祈りが段々出来る様にならせて頂くとです、そしてもう確信おる祈りの程度が、今日もおかげを頂いて有難かったと言う、有難いと言う又度合いでもある訳です。
 祈りもせん願いもせん、それでもおかげを頂いておる、だからおかげを常日頃おかげを頂いておっても、其れは当然の事当たり前の事の様に、あぁきつかった、きつかった早ようねろ寝ろと言うぐらいな事になってしまう、ですからどうでも一つこの祈りを大事にしなからばいけん、しかも強烈なしかも確信して祈りが出来る様な、工夫又は修行させて頂かなければいけない。同時に又痛いならば。
 又は困っておるならば其の事を願わなければならない、そしてお金と言う物が本当に恐れ居てしまう、神様にお願いすればそう言う様なおかげを下さると、そういうおかげを先ずは頂かせて貰う、所謂おかげの世界に住むのです、それは信心を頂かなければ体験することの出来ない世界。そこから段々解らして頂きましてです、例えば教祖金光大神の祈りと云う物は、金光大神の祈りが、氏子一人ひとり、勿論信者氏子ですよ、信者氏子のひとり一人の上にです。
 そう言う強烈な祈りの中にあるんだと云う事を解らせて頂いて、今日もおかげを頂いておった事を解らして貰うて。そのお礼の心がです、次の行動に移っていく、次の御用に変わって行く、其処の所を祈りもしなければ、ざぁとした祈りとでも申しましょうか、又は祈りもしないそれは最高のおかげを頂いておる、痛いもなからにゃ痒いもない、何時もまめなおかげを頂いておる、最高のおかげを頂いておる。
 いつでも言うなら日々の祈りが疎かであると、おかげを受けておってもおかげを、おかげと気付き切らん朝の清々しいこの心の状態で、神様に一心不乱の祈りを捧げる、そして言うならば、昼の忙しさの中に、愈々神さんのおかげを味あわせていただきながら夜に入る、その夕べの祈りの有難いこと、其れこそ朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有難さ、もう是は例えようの無い有難さ。その有難さが又明日の活動の所謂。
 おかげの源泉とも又なるのです、そう言う私は日々をです綿密に言うならば目の詰った行き方をさして頂く生活を、信心生活だと云う事を思う。そう言う信心生活が繰替えされて行く所から、私はお徳の世界、所謂願い以上のおかげとこう云う。そのこの世界はもう無尽蔵であり限りの無い世界である、そう言うおかげをです天地金の神様は、氏子信心しておかげを受けてくれよと、言うておられるのだと私は思います。
 四十六節私は是をしじゅうと言う事は何時もと言う風に頂いて来ました、しじゅう病気をしているとか、先日ある教会の信徒会長さんが参って来なさって、此の頃信徒会に此の頃何でしたか、何処でありましたかね、あのう文雄さん何処じゃったかの、宮野。宮野教会であった、それでお宅は沢山おいでられるでしょう、というたら、いや、私の方は41人でした、ほーそげんお参りになったですかちゅたら、私一人で御座います、信徒会長がだからしじゅういちにんち。しじゅうと云う事は何時もと言う事。
 私は六と云う事は私はお徳と言う事、例えば百万石の禄ね何万石というでしょうが、あれを禄と言う、だからそれは私は徳と言う風に頂いた、私はこの46節と言うその46節の中からでも、一つ私は神の声を聞かなければいけないと。今日は私は皆さんに聞いて頂いた、痛いのが治ったのが有り難いのではない、けれども先ず痛いならば治るおかげを頂かなければならない、そうして何時もまめなのが有難いと云う事をね。
 もう本当に実感させて頂けれる信心生活が出来る様になる所からです、言うならばおかげの世界ではない、もう徳の世界だと。そこでです、なら46節何時もお徳を頂かせて頂けれる、チャンスと云う事は日々あると言う事が解ります。お徳を頂かせて頂けれる言うならチャンスは、もう日々しじゅう禄です、しじゅう徳を受けるねチャンスはあるのだけれども、私共が迂闊にしておる、祈りが薄い言うならば目が荒いそこからです、例えば朝の清々しい中に本気で信心の稽古をさして頂いて、言うならば祈りの稽古、神様と交流するまあ唯一の・・
 (ここでテープ切れ)